1983年に社会学部を卒業した後、横浜の捜真女学校に7年、その後1990年から関西学院高等部に勤めるようになった。2010年の3月で高等部での教師生活は丁度20年となる。一人前の教師になったのかと問われれば、四半世紀を経た今日でも、うまくいかないこと、反省すべきことが多く、この仕事の難しさと怖さ、奥深さを感じている。 さて、ここ数年、特に21世紀に入ってから、成果主義、市場原理主義、競争原理、自己責任、格差社会、ワーキングプア、このような言葉が毎日のように私たちの目や耳に飛び込んでくるようになった。


 その昔、日本の労働市場には、正社員とアルバイト(主婦や学生)しかいなかった。労働市場が大きく変化する契機となったのが、1986年に施行された「労働者派遣法」である。制定当初は、通 訳やソフトウェア開発などの専門的な業種に限られていたが、その規制が1999年に原則自由化され、2004年からは製造業や福祉の分野でも派遣労働者を雇用することが可能となった。労働市場の完全自由化である。法律が生まれた20年ほど前に、今日の労働市場の流動化・不安定化を予測できた人はほとんどいなかったのではないだろうか。


 2008年9月のリーマンブラザーズ破綻に端を発する世界金融危機・世界同時不況で、日本でも自動車製造業や家電製造業で大量 の「派遣切り」が行なわれたことは、記憶に新しい。製造業などは、最も景気の変動による影響を受けやすい。また、福祉・医療・介護などは、民間の商業ベースで事業を続けることが困難な分野である。良心的に丁寧に行なおうとすれば、時間がかかり、効率も悪くなり経営が成り立たなくなる。反対に利益最優先で行なえば、質の低い、心の通 わないサービスしか提供できなくなる。
 公的介護保険による介護事業を請け負っていた株式会社コムスンが、効率至上主義で無理な事業展開をしていたことが明るみに出たが、あの後も「コムスンが撤退すれば、私たちの島で介護サービスを実施してくれる会社はなくなる」といった過疎地域の悲痛な声が聞こえた。


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「自己責任」という無責任な言葉

 高等部の生徒たちと話しをしていて、とても気になることがある。ネットカフェなどで寝泊りをしているフリーターや派遣労働の若者たちにもこの傾向は共通 しているように思える。
 それは、「自己責任」という言葉だ。
「こんなふうになってしまったのは、自分が悪いからだ」
「正社員になれなかったのは、自分のせいだ」・・・・・。
「悪いのは本人」
「悪いのは自分」、この風潮がとても強まっている。 本当にそうなのだろうか? 


 ヒト、モノ、カネ、情報が、国境を飛び越えて自由に行き来するグローバル化の時代を私たちは生きている。グローバル競争の中で、企業は生産コストを抑えるために、人件費の安い中国や東南アジアに工場ごと移転する動きを強めている。日本国内に関して言えば、不安定雇用の中で働いている若者たちは、外国人労働者とのあいだで低賃金化競争にさらされている。
「外国人労働者のせいで、自分たちの仕事が奪われている」これは、ヨーロッパ各国でも不況になれば表面 化してくる声である。しかし、「外国人労働者がいなくなれば、問題は解決される」と言えるほど、ことは単純ではない。仮に、外国人労働者を締め出したとしても、日本人労働者の労働環境が劣悪な状態のまま維持されることは間違いない。

 
「強いられたフリーター」という言葉もある。「バンドをやっていてさぁ」「まだ若いうちは自分の夢を追いかけていたいと思って・・・・」そのような声を若者から聞くが、労働市場が昔のように正社員を前提としていて、企業が正規雇用を大幅に増やしていれば、ここまで多くのフリーターや派遣労働者が生まれることはなかった。「個人の責任」に転嫁するのではなく、社会の構造的な変化に目を向ける必要がある。  


「個人の責任」に関して、四つの事が同時に降りかかってきたら、私もあなたもホームレスになるという話を生徒たちにする。  
1.重い病気 
2.失業  
3.借金(親友の連帯保証人になっていた。親友は返済するつもりだったが、ある日失踪した etc.)  
4.家族の崩壊(本来は支え合うはずの家族が、機能していないetc.)



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最低限度の生活を営む権利

 最近は、サラリーマン出身のホームレスも増えている。 「昼間から酒を飲んでベンチで寝ている。あいつらは怠け者だ」このような見方をする大人も多い。その大人たちの意識が、青少年によるホームレス襲撃事件へとつながっている。なぜ、昼間から酒を飲んで寝ているのか。それは、夜中じゅう、凍死しないようにずっと歩き続けているからである。コンビニ等のゴミ箱に捨ててある、酒類等を少しずつ飲んで身体を温める。日が昇り、風のない穏やかな天候であれば、ようやく眠ることができる。
 
「自己責任」の思想を社会に定着させた一人に、小泉政権で構造改革を担った竹中平蔵・慶應大教授がいる。氏は、2009年10月21日、朝日新聞の「オピニオン面 」で、国の最低限のサービスを確保した上でとの条件つきで、医療や福祉、教育の規制緩和は必要と論じている。
「高額を払ってでも名医の治療を受けたい人はいる。今は保険診療のもとで世界的名医といわれる人が風邪の治療もしている。それは若い先生が経験を積むためにやってもらえばいい。」
  まさに、カネのある人はいくらでも先端医療を受けてもらってもよいが、カネのない高齢者は、お国のためにサッサと死んでもらいたいと言っているように、私には聞こえる。


 人間は、100%完璧な存在ではない。いくら注意をしていても病気になることもあるし、予想できないことから大怪我をすることもある。それらは、全て「自己責任」なのだろうか?
 2009年5月3日の憲法記念日。いつもならば、第9条を中心とした戦争と平和、戦争の放棄、安全保障、自衛隊の派遣などがテーマになるのだが、この年は違った。憲法第25条に焦点をあてた憲法記念日特集がほとんどを占めていた。

 日本国憲法第25条 【生存権・国の社会的使命】
1.すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2.国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

 憲法第25条に焦点をあてたNHKの特集番組を3本ほど見、授業でも使ったが、2.国の社会的使命・ 生存権保障義務 が字幕で流れることも、朗読されることもなかった。全て、1.生存権 のみの取り 上げ方であった。
  従軍慰安婦の特集番組が安倍晋三・元首相と故・中川昭一 元財務大臣の圧力(?) でNHK側の内容変更となったことから考えると、今回も政府筋からNHKへ何らかの圧力があった のか、それともNHK側が政府の意思を忖度(そんたく:他人の気持ちをおしはかること)して、2. 国の社会的使命 に敢えて踏み込まなかったのか、どちらかではないかと考えてしまう。
 おっちゃ んも、この年齢になると、かなりひねくれたものの見方をするようになってしまった。困ったもので ある。


 因みに、憲法とは一体どのようなものなのだろうか? 
「校則みたいに、みんなが守るべきルール のようなものじゃないの?」このように漠然と考えてしまう私たちであるが、実はそれは誤りである。
 日本国憲法は第1条から第40条まで、主権者である国民の、政府(国家)に対する命令というスタ イルをとっている。立憲主義とは、主権者である国民が、憲法で権力者(政府)を縛るという考え方 に立っている。  
「美しい国・日本」を掲げて、自主憲法制定を強く主張した安倍晋三・元首相は、2007年7月 の参議院選挙で大敗したが、彼は立憲主義を全く無視した発言を繰り返していた。


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憲法を尊重し擁護する
義務を負う者たち


 第9条などに比べると、ほとんどの人が知らないかもしれないが、とても大切な内容が憲法第99 条に書かれている。

 日本国憲法第99条 【憲法尊重擁護の義務】 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う。
 主語に注目してもらいたい。主語は「国民」ではない。憲法の尊重擁護義務を負わされているのは 国民ではない。立憲主義の真髄がここに端的に記されている。


 2006年12月に「改正」された教育基本法では、「国を愛する態度」が教育の目標として第2条 に書かれている。また、自民党が2005年10月に発表した「新憲法草案」では、前文に「日本国 民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有し、・・・・・・」と いう記述がある。立憲主義においては、憲法は、国民の政府(国家)に対する命令である。縛りをか けているのは国民で、縛りをかけられているのが政府(国家)なのだが、この「新憲法草案」では、 縛りをかける主体とかけられる主体とが逆転してしまっている。
 「愛国心」は、義務として国民に課さねばならないものなのだろうか? 国民に愛国心を持っても らいたいと考えるのであれば、愛してもらえるような政治をすればよい、ただそれだけのことである。 「今度、生まれ変われるとしたら、どこの国に生まれたい?」と質問されて、「絶対に、ニッポンだ!!」 と答える国民が増えれば、それは何よりも強固な、本物の「愛国心」だと思う。


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子どもの教育に無関心
だった国家ニッポン


 子どもの学力世界一のフィンランドでは、教育への投資は未来への投資であるとの考えに立って、 大学までの授業料は無償である。日本は、「教育は親の責任」という考えが強いせいか、先進国の中で も教育への国家予算の支出は極めて低いのが現状である。奨学金の整備もまだまだ不足している。
 フィンランドでは学力に差がある子どもたちを混ぜて小グループを作り、「教え合い・学び合い」を 行なっている。成績が中位・下位の子どもにとっては、身近なところに家庭教師役をしてくれるクラ スメイトがいるため、学力向上へとつながる。成績上位の子どもは、教師役を期待されているため、 余計に授業に集中するようになる。
  更に、「教えることの効果」がとても高いということが指摘されて いる。分かっていないことを教えることはできないので、本人の中でも、知識・理解が定着すると言 われている。

 
見逃せないのがグループ内での人間関係である。教師役をしている生徒たちには、 必ず「ありがとう」という言葉が他のメンバーから返ってくる。これは、人間にとってとても大切な ことである。この言葉をかけてもらうために、私たちは人生を歩んでいる、そのように思ってしまう ときもある。
  感謝される、認められる、ほめられる、尊敬される、これはとても大切な要素である。


 成果主義ひとつをとっても、「成果主義を導入して、その先にどのような会社を作りたいと考えてい るのか?」と聞かれて、返答に困る経営者が多い。「みんながやっているから」「隣の会社も導入した から」それだけでは、何ともビジョンに欠けるのではないか。過度の競争は、人間の心の安定を壊し てしまう。

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私たちは、
どのような社会を作っていきたいと
考えているのだろうか?


 自由放任主義のアダム・ スミスは初期の資本主義を理論化した経済学者である。ところが、自由競争では貧富の差が拡がる。 計画経済を実施して、生産・流通・販売を国家が統制すべきとして社会主義を唱えたのがカール・マ ルクスである。両方のよいとこ取りをしたのが、修正資本主義のケインズ。そして、現在。新自由主 義の名のもと、「小さな政府でよいのだ」とする、市場原理主義が世界を席巻している。
  言わば、品位のないwildな資本主義に先祖帰りをしてしまった観がある。そこで蔓延しつつあるのが、「自分さ えよければよい」という考え方である。人間は元来利己的な存在である。しかし、多くの人が、「自分 さえよければよい」という考え方で突き進んでいったときに、その先に待っているのはどのような世 界だろうか?

 私たちが住みたいと思うような社会、そして世界とは、どのようなものなのだろう か?
 生徒たちに問いつつ、自分自身も問い続けている日々である。


 
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