今日、中村獅童さんと対談しました。(文中敬称略)

  東銀座にある歌舞伎座は、建て替え前の「さよなら公演」が盛況で、平日のお昼、おば様方で賑わっていました。歌舞伎座は、大戦末期の東京大空襲で焼失し、昭和26年に復興されたもの。国の登録有形文化財に指定されましたが、老朽化により来年春から建て替え工事が進められるそうです。中村獅童は演目の幕間を縫って対談に応じてくれました。


  この話が来たのは実は3日前。航空自衛隊の親睦会が発行する機関誌「翼」の編集長が、知人のつてで中村獅童を紹介してもらい、先方から都合がついたと連絡があったので、急きょ「先輩、やってちょうだい!」と電話がかかってきたのです。編集長は、お互い女性自衛官の草分け時代からともに苦労した仲間。だけど、映画で彼を見たことはあるけど、私、歌舞伎なんて観たことないしな〜。とは言いつつ、あの独特の、「顔力」と言ってもいいような、不思議なパワーとあくの強さを漂わせる役者さんと一度会って話をしてみたい、という気持ちもこれあり。


  獅童には、「歌舞伎座の怪人」という著書があります。編集長からそれを借り、にわか勉強で“正統派異端系”と呼ばれる彼の生い立ちを知りました。彼の祖父は有名な女形、三代目中村時蔵。父初代中村獅童は、少年時代に鬘を投げつけて歌舞伎を辞め、銀行家になったそうです。伯・叔父は綺羅星のごとく歌舞伎役者や映画スターばかり。2代目獅童は8歳で初舞台を踏み、子供時代はおとぎの世界に夢中になりました。しかし、伝承と血統を重んじる梨園で、父親の指導や後ろ盾がなく、かといって血筋がいいので他人に弟子入りもできず。従兄の御曹司達がちやほやともてはやされる中、青少年時代は役に恵まれず、一人「醜いあひるの子」のような寂しさを味わった。


  そんな状況を打破するため、30歳を前に自らオーデションに応募して役を勝ち取った映画「ピンポン」で、それまでの鬱屈を全て爆発させ、新人賞計5冠を受賞。映画で次々と個性的な役にチャレンジ、TVドラマなどへの出演で活躍の場を広げる一方、歌舞伎でも初の主演を務めて好評を博しました。反面 私生活では、数年前に酒気帯び運転で検挙されたり、女性との浮名や美人女優との離婚が報じられたのは記憶に新しいところ。はたして、実際はどんな人なのか・・・航空自衛官が着るジャンパーに、獅童のネームや日の丸、飛行隊のワッペンを付けた特製ジャンパーをおみやげに用意して、歌舞伎座の応接室で待ちました。


  静かに扉が開き、姿を現したのは、鶯色の羽織の和装に淡い金色の短髪、ほっそりして色白の端正な男性でした。逞しいやんちゃくれのイメージも横柄な態度もない。ジャンパーは喜んでくれましたが、やや緊張気味で、質問に対して礼儀正しく言葉を選んで回答が返ってくるだけ。うん?ちょっと違う。もっと豪快に、獅童の独壇場で話が展開するかと気楽に構えていたのに、時間まで対話がもつかしら〜と一瞬不安になりました。しかし、実は私は「カウンセラー」なのであります。佐々木ゼミで社会心理学を専攻して以来、心理学の勉強はさほどしませんでしたが、定年後はカウンセリングの仕事をしたいと思い、数年前に民間団体が認定する産業カウンセラーの資格をとったのです。人の話を傾聴しながら、その方の話したいことを話して戴くすべを勉強中の身。相手の方にはリラックスして会話をして戴きたいと思いました。


  最初はぎこちなく思えた対談も、少しずつ柔らかいムードになり、途中お互いに笑いあったりしながら、話はクライマックスへ。若い隊員にメッセージをお願いしました。彼の言葉は訥々としていましたが、心に響いてきました。〜疎外感や挫折の多かった青少年時代、自分の居場所がどこにあるのかわからなくて、孤独や戸惑いも感じた。でも、夢は持ち続けることが大切。自分が今、何を感じているのか、何を考えているのか、それをしっかり見つめること。毎日、毎日、その繰り返しかもしれない。しかし、そういう自分がいる限り、その先には、きっと次の自分がいる。〜  


  中村獅童、37歳。まだまだ成長中。

  歌舞伎座の怪人でなく、“快人”。  

「あきらめなければ 夢は かならずかなう」

 2009.12.16メールにて


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10期生 柏原 敬子(きりこ)航空自衛隊勤務


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