1889年からの関西学院の歴史−− 敬称略、青字がKG関係のニュース 現在の名称・社名が違う場合は()に現在の名称明記

 




写真は関西学院初代院長ウォルター・ラッセル・ランバス/ 1854(安政元)年上海にうまれ、アメリカで教育を 受けた後 再び中国へ、1886(明治19)年32歳の時、 妻デイジーとともに 来日。3年後に関西学院を創立。


 

1885(明治18)年・南メソジスト教会、日本伝道を開始

1886(明治19)年11月24日ウォルター・ラッセル・ランバスWalter Russel Lambath来日。神戸に最初の教会、南美以神戸教会・神戸栄光教会創立、着任。その後4年間の間にパルモア学院、広島女学院、関西学院、聖和短期大学、岩国教会、宇和島教会をはじめとする多くの学校と教会を創設した。やがて彼は日本を離れ朝鮮半島、ブラジル、メキシコ、アフリカ、そしてシベリアの地までキリスト教の宣教師として活躍の場を広げる。




1889(明治22)年7月・誕生への鼓動
ウォルター・ラッセル・ランバスの努力により、アメリカミッション会議にて関西学院の設立を議決。「人間の運命を左右するものは、個人である。政治でも経済でも、宗教でも教育でも、学問でも芸術でも、みな人を通 じて動いていく。世界の平和も戦争も、人類の幸福も不幸も、人の手の中に握られている」

1889(明治22)年9月28日・「関西学院」の創立初代院長となる。
神戸市郊外の原田村、現在の神戸市灘区王子町の王子動物園のある一帯に、ウォルター・ラッセル・ランバスによって創立。神学部と普通 学校を持つ。

原田の森、中央にあるのがブランチメモリアルチャペル




現在のブランチメモリアルチャペル。今の原田の森は 王子動物園、その北には神戸松陰、神戸海星の ミッションスクールがある



1908(明治41)年ブラジルへ神戸から移民船就航

 創立の頃から半世紀の間その原田の森に美しい姿をとどめていたブランチメモリアルチャペルは第二次世界大戦の神戸大空襲で焼失。現在、そのブランチメモリアルチャペルは1993年神戸市によって王子動物園西に復元。「王子市民ギャラリー」として親しまれている。また「関西学院発祥の地」の石碑がある。

1894(明治22)年・「関西学院」の象徴三日月の校章制定
新月が満月へと刻々と変化するように、関西学院に学ぶものすべてが日日進歩と成長の過程にあることを意味している。


1908(明治41)年神戸からのブラジル移民船「笠戸丸」の出航




1912(明治45大正1)年・Mastery for Serviceの提唱
第4代院長になったカナダ人宣教師ベーツBates,C.J.L(1877-1963)がカレッジモットーとして「マスタリーフォサービス」を提唱。社会や他人へ奉仕することの練達と訳されたこの言葉は現在も関学のスクールモットーとして生き続けている。この年高等学部文科、商科を開設。・神戸でパーマネント・入浴料3銭



1915(大正5)年・関西学院教会創立
普通学部を中学部と改称。・桜島噴火、大隅半島とひっつく・新聞購読料金50銭・ビール22銭



LIBRARY
1929年竣工当時の関西学院の象徴とも言うべき図書館、 もっとも現在と違うのは その両サイド。 そしてクリスマスツリーとなる木がまだ小さい事だ。 中央芝生と文学部前の道との関係も今とはすこし違う。 いまでは図書館前から中芝へは階段があるのだが、 当時は中芝と道が 一体化している。 2001年、この建物には図書館という看板はなく、 さびしいかな図書館としての機能はない。



LIBRARY1981、上の時計台図書館と見比べて欲しい 両サイドに増築された建物がバランス良くある。 当時は6時閉館だった図書館もKGB総部放送局の お昼の番組 での久山院長へのインタビューや学生からの CODカードでの嘆願によって開館時間が 延長する。 今ある自由もだれか先人の先輩の労があってのこと。それを記念して当時撮影された写 真



MAIN STAIR HALL
1929年竣工当時の図書館メインホール。



THEOLOGICAL BLDG.
1929年竣工当時の神学館



LITERARY COLLEGE
1929年竣工当時文学館、現在の文学部


RELIGIOUS WORK BLDG.
1929年竣工当時宗教館


1921(大正10)年灘生活協同組合はじまる





1929年国産初の写真フィルム「さくらフィルム」小西六(コニカ)発表

1916(大正6)年・高等学部商科から第1回卒業生12名がでる。・フロイト「精神分析入門」刊行・コカコーラのボトル・チャップリン人気に


1921(大正10)年・ウォルター・ラッセル・ランバス永眠。
初代院長ウォルター・ラッセル・ランバス、軽井沢で宣教師会開催のため再来日するが、発病により、横浜万国病院にて永眠。神戸市立外国人墓地に葬られた。・灘生活協同組合はじまる・


1923(大正12)年・関東大震災被災者救援に向った関西学院救護団
マスタリーフォサービスの精神ここにあり、関東大震災の被災状況を知った当時の関西学院学生達は積極的な被災者救護活動を。


1926・7(昭和1/2)年・銀行とりつけ騒動で泥沼の金融恐慌・田中義一首相山東出兵を指示・野球の実況放送の開始・日本初の地下鉄の開通 上野浅草間・アラカンの鞍馬天狗・芥川龍之介の自殺・赤ちゃんに白いぬ いぐるみを着せて街にでるのが流行に

1928(昭和3)年3,15事件共産党大検挙・軍ファシズムの台頭、恐怖の治安維持法・第二次山東出兵・国産電気吹き込みレコードがはじまる・第9回アムステルダムオリンピック開催、五輪史上はじめて日本に金メダルを男子三段跳び織田幹雄選手が、また女子800メートルで人見絹枝選手(8度も世界記録を塗り替えた人)が銀メダルに。



1929(昭和4)年・「原田の森の関西学院」から「上ヶ原の関西学院」へ
神戸市郊外の原田村から当時甲東村と呼ばれていった、現在の西宮市上ヶ原へ移転。約7万坪の地にウィリアム・メレル・ヴォーリズの手によって描かれたそのキャンパスはスパニッシュ・ミッション・スタイルの美しいものでした。・世界恐慌はじまる・大学は出たけれどの時代、3月に東京大学を卒業した学生のうち就職できたのは30%、この年に失業率は4,36%・4,16事件共産党検挙・


1930(昭和5)年・産業の合理化政策が進む・不況の世の中でエログロナンセンスが都会で流行り、天候不順と不況のダブルパンチで田舎は娘の身売り話ばかりの暗い世の中に。

1931(昭和6)年 ・満州事変でついに日本は世界の孤児に・冷害で東北地方の農家大凶作・「給金の高いお屋敷女中に」とだまされて2円の手付金をもらい身売りする農家の娘・警視庁は活動写 真館で男女別席を指示していたがこの年から男女同席可に。乾電池が松下電器製作所から発売

1932(昭和7)年・関西学院大学の誕生・ キャンパス移転からの三年後、学生教員の悲願であった大学設立が文部省から許可され、高等学部が大学に昇格。関西学院大学のはじまり・犬養毅首相殺害、政党政治のおわり・不況とインフレ、農村の凶作と良いことなしの日本・「生まれてはみたけれど」の映画と言葉が大流行に・ロサンゼルスオリンピックで日本水泳陣が金メダル7個「水泳ニッポン」。・



原田の森から上ヶ原へのキャンパスの移転当時の写真

1932(昭和7)年六甲ケーブル線開通
1933(昭和8)年・校歌「空の翼」誕生 ・ 日本を代表する作曲家で同窓の山田耕筰が曲を北原白秋が歌詞を担当し、作られたのが「空の翼」近年山田耕筰自らが歌った「空の翼」が発見され話題に・プロレタリア作家小林多喜二が築地署で拷問のすえ虐殺される・学問の自由も奪われる「京都大学滝川事件」・安上がりとヨーヨーが子どもから大人まで大流行。


1937(昭和12)年寿屋角瓶



1939(昭和14)年伊丹空港、大阪第二飛行場として開設

1934(昭和9)年・大学法文学部と商経学部開設・ワシントン条約を破棄・室戸台風で死者行方不明者3,066人・プロ野球チームが誕生。

1935(昭和10)年・「国体を守るのが良い国民」と言うわけのわからない言葉だけが飛び交う時代に・喫茶店の流行・第1回芥川賞石川達三の「蒼氓」第1回直木賞は川口松太郎「鶴八鶴次郎」

1936(昭和11)年・「大日本帝国」が正式国名に・2.26事件・お花見を警視庁が自粛を国民に要請、馬鹿げた国に。・蒸気機関車D51デゴイチが川崎車輌で生まれる

1937(昭和12)年・大学第1回卒業生201名を出す・軍需ボーナスで一時的に個人消費が刺激・蘆溝橋事件・ついに中国と開戦、国民はずるずると戦時体制へと引きづりこまれる。・

1938(昭和13)年・「国家総動員法」による統制経済、「ヤミ」にたよるしかない国民・竹のスプーンなど代用品が流行と言うより仕方なく

1939(昭和14)年・「日本人ならぜいたくはできないはずだ」の標語のもと、どこへ行く・日独伊の三国同盟・第二次世界大戦はじまる・零式艦上戦闘機



1940(昭和15)年騒動まで起きた「ナイロンストッキング」デュポン社発売

1940(昭和15)年・1941年3月末までにベーツ前院長をはじめ外国人宣教師が全員帰国・ 「紀元2600年の栄えある国体」と連呼「国体」とは「国民」を無視した国のこと・今宵限りのダンス、ぜいたくは敵だということでダンスホールは閉鎖へ・ドレミファは駄 目、はにほへとで音感を・「神の国は人間の中にある、すべて人間の中に、みなの中に、みなには幸せを創りだす力がある。人生は美しく、自由であり、素晴らしいものだ」チャップリン映画「独裁者」製作、しかし日本に入ったのは1960年・



1940(昭和15)年」チャップリン映画「独裁者」製作


1941(昭和16)年・ 軍国主義教育が、小学校が「国民学校」に変わる・「月月火水木金金」と米の配給制はじまる・外来語の排除・日米交渉再開、決裂・12月8日マレー半島に日本軍上陸開始、真珠湾攻撃、ついに対アメリカ、イギリスとの戦争へ・「蘇州夜曲」李香蘭・気象報道禁止

1942(昭和17)年 ・1月学徒勤労動員開始・ 「貴様のようなやつは殺したほうが国にためになるのだ」と刑事は狂喜の言論弾圧・生活のすみずみまで統合、承認、交付、配給、管制とお役人天国・新聞で伝えられる連戦連勝のはずが東京空襲・コダカラーフィルム誕生、色付き写 真・生活のすみずみに奨励、統合、承認、交付、配給、管轄などが入り込み息苦しくなる・「欲しがりません勝つまでは」

1943(昭和18)年・戦争の暗い影・ 専門部神学部が閉鎖され、日本西部神学校に統合される(1944年閉鎖)。・勝っている戦争のためにとなんと甲子園球場の鉄傘まで供出・谷崎潤一郎の「細雪」連載中止へ・ジャズのレコード禁止・鳥取大地震死者1083人・アジアに新政権誕生ラッシュ。・イタリアファシスト政権無条件降伏
1944(昭和19)年・ 学童集団疎開を閣議決定・マリアナ沖海戦・レイテ沖海戦・神風特攻隊初出動2483機が消えた・国民学校生徒の集団疎開はじまる・東京は家屋の強制破壊、アメリカのB29にやられるか、日本軍の戦車でやられるかの運命・宝塚歌劇団が最終公演、以後は巡回慰問芸団となる・硫黄マッチ出現・はがき3銭



1945(昭和20)年8月6日原子爆弾によって広島の町壊滅状態に


1945(昭和20)年8月9日長崎にも原子爆弾投下


1945(昭和20)年・学生が帰校し、秋から授業再開戦火を増した第二次世界大戦は日本本土をも襲った。神戸には105回も「敵機来襲」し町は見渡すかぎりの焼け野原になった
・1月13日東海大地震おこる死者1,900人・3月アメリカ軍沖縄本島に上陸「ひめゆり学徒隊」の悲劇・3月13日大阪大空襲、3月17日神戸大空襲で多数の市民なくなる・8月6日広島に原子爆弾投下当時の広島市の総人口約40万人の半分以上の27万人が死亡今なお苦しむ人数知れず、8月8日ソ連が宣戦布告、8月9日長崎にも原子爆弾投下・8月10日ポッダム宣言受諾 。・日本は戦争に敗れる・人口7,215万人・ヒトラー自殺・コーヒー5円


1946(昭和21)年・大学再建へ。法学部、文学部、経済学部の三学部に・
日本国憲法公布・天皇の神格否定・ラジオブーム・「カムカムエブリボディー」英会話番組はじまる・戦後インフレ・「いい買い出しの口がある」「米を世話する」とだまして強姦殺人を繰り返した小平義雄逮捕・べスパ誕生・パリでセンセーショナル水着ビキニが発表された・本田宗一郎がエンジンつき自転車を発売・松下電器から電器炊飯器発売・くれよん発売・公務員の初任給540円


1947(昭和22)年・文学部宗教学科を神学科に改める・飢える都会と農村をつなぐ買い出し列車は今日も行く・The Flying Fish of Fujiyamaと言われた古橋広之進が400メートル自由形で世界新記録「ちゃんとしたものを食べればもっと速く泳げる」とコメント。食べるものが無い時代・戦争孤児の施設が舞台のラジオドラマ「鐘の鳴る丘」・電気自動車「たま」発売、プリンス



1945(昭和20)年英国政府占領軍はドイツにフォルクスワーゲンビートルを2万台発注、ドイツ戦後復興へ

1948(昭和23)年
・ガンジー暗殺
1948(昭和23)年・新制大学としての関西学院大学のはじまり・ 戦後民主主義を理念とした「学校教育法」「教育基本法」が公布されて、6.3.3.4年制となり、関西学院も新制大学、新制高等部を開設・昭和電工疑獄事件・福井大地震死者3,859人・町議、暴力団、官憲のなれあいを記事にした朝日新聞記者が暴行を受ける「本庄事件」・セロテープ誕生・大韓民国成立・朝鮮民主主義人民共和国成立・世界人権宣言・公務員の初任給2300円

1949(昭和24)年戦後低迷する郵政事業救世主となったお年玉つき年賀状誕生はがき2円
1949(昭和24)年・A Song for Kwansei・ 創立60周年を記念してカレッジソング「 A Song for Kwansei」かんせい・インフレ抑止の劇薬ドッジライン、一挙にデフレ不況へと、解雇者約50万人とも・湯川秀樹博士にノーベル物理学賞・中華人民共和国成立・ドイツ連邦共和国(西)、ドイツ民主共和国成立、ドイツと同じように日本も分断されれていればどうなったか・ビール126円50銭


1950(昭和25)年・新制大学の第1回卒業生
記念すべき新制大学になってからのはじめての卒業生が386人(2001年の関西学院大学学生1万8千人)・朝鮮戦争勃発で戦争特需・千円札登場・レッドパージはじまる・ゼロックスをとる、コピー複写 機誕生・金閣寺炎上・朝鮮戦争ー53年まで・コーヒー30円

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